コンピュータは人間を進化させるか - アラン・ケイ氏インタビュー

http://pc.watch.impress.co.jp/docs/2006/0925/high43.htm

 ケイ氏の話はこう続く。私たちも実はこのカエルと同レベルで、気付かない物事が多い。そしてそれを普通だと思い込み、すぐに二者択一的な考えをする。しかしまず自分が気付いていないということに気付いてみよ。すると、ほかに方法はないか考えるという科学的思考が始められるようになる。世の中の人が皆そのような理性を身につければ、科学は進歩し、短絡的な善悪判断による紛争もなくなるかもしれない。

 一方、ケイ氏にとって今のケータイやネットやPCは、'60〜'70年代に自分たちが試作・構想していたものがようやく実現し始めたにすぎず、目新しさはない。しかも、ケイ氏は今の状況に多少失望もしている。人々は科学的思考をするようになるどころか、簡単に情報を与えてくれるネットによって、自分たちの無知に気づけない状況を強めていると見る。

 だから'90年代になって我々は皆非常に失望した。(新世代の技術者らは)なぜただ我々が書いた論文を読んで実行しないのだと。我々が出した答えは、彼らは違うグループに属す人間なので、その論文を読めないということだ。彼らはポップカルチャーの人間だ。ポップカルチャーの人間にクラシック音楽を学ばせたかったら、彼らが自分でクラシック音楽を発明する必要がある。なぜなら(学習は)労力がかかるからだ。

カルチャーが異なる環境では、学習するより、車輪の再発明をしたほうがたやすい?

 欠けているのはパースペクティブ(視野)だ。パースペクティブの欠落は好奇心の欠落に直結する。もしあなたが世界全体を見終わったと思うなら、あとはすべてのものに名前を付ければいい。しかし全部は見ていない、どころかほとんど見ていないと気付いたとたん、名前のないものを探し始めなければならない。

そう、これはつらい。

ケイ:私にとって最もシンプルなアナロジーは本がどう使われているかだ。本に書かれている事柄の範囲は広い。さまざまな人々がさまざまな本を買う。本はあなたが啓蒙される機会を与えるが、あなたを無理やり啓蒙しはしない。本を読む読者になるだけであなたは変わるが、それだけで啓蒙されるわけではない。同様に、コンピュータユーザーになるだけであなたは変わる。例えばインターネットを使えるようになりさまざまな物事を見つけるとあなたはそれまでと違った人間になる。しかし必ずしも啓蒙されるわけではない。

何が違うんだろう...

しかし私は、子供がそれについての作文を書かない限り学んだことにならないと主張している。作文は思考を組織化する。

主体性かな。取り込むには咀嚼がいる。

先進国で、科学者とまともな会話ができる成人、言い換えると科学的リテラシーを持つ成人は5%未満だ。科学的リテラシーとは、科学の本を読んで、その考えをほぼ理解でき、科学者とそれについての発展的会話もできる能力だ。95%の大人は科学的リテラシーを持っていないのだ。

原発事故で、大半の人が放射性物質について理解できないということが明らかになったよな...